真夜中おやつ

音楽と紙と料理、そして猫が好きな人の日記。

2011.3.12〜

地震があった翌日。

迷った末、わたしと母で店を開けることにした。

まだ開けていない店も多く、開いているスーパーやコンビニでも商品棚はガラガラ。
仕込みもままならないけど、とにかく開けようということになった。
昨日、たまたまこの街に来て帰れなくなった人たちが来ると思ったから。

案の定、駅前の喫茶店には千葉県外に住んでいるお客さんが集まった。
昨日の夜ここにいたお客さんが多かった。
集まった、といっても席の半分以上は空いていた。
大津波警報が出ているうちは電車は動かせない、とのことだった。
だから地元の人間はほとんどが外に出なかったのだと思う。そんな気分でもなかっただろうし。

そしてその日のニュースで、これが東北を震源にした地震であり、未だかつてない規模の津波があったことを知った。
ようやくわたしたちは事態を把握し始めた。


今日は特別なので、充電も通話もご自由に。
なにかわかったら共有しましょう、大きな声で話してけっこうです。
何も頼まずに何時間いても大丈夫。

少しは出るようになった声でそう伝えた。
ウィスパーボイスしか出なくても、店に来る理由があった。
店には昨日までの残り食材があったので、それをふるまった。
わたしの携帯電話はまだ通じなかったけど、関西や東海から来たお客さんの携帯電話は通じていて、家族や会社に状況を伝えたりしていた。
アクアラインを通る高速バスが動き始めて全員を送り出すまで、いつもはばらばらの1番テーブルも8番テーブルも、皆で声をかけあって過ごした。
お客さんが店を出るとき、目を見て「ありがとうございました。気をつけて」と言った。
お客さんも「ありがとう」と目を見て言った。

それはとても貴重な体験で、わたしは喫茶店に生まれて喫茶店の仕事をしてきてよかったなぁと思った。
日常のひとときを少しいいものにするのが喫茶店の役割だと思ってきたけど、非日常といえるものを整えることに役立てたこと、日常を立て直すお手伝いができたことで一歩先に進めたような気がした。

それにしても、本当に何もなかった。
特に、米・パン・水・カップラーメン・トイレットペーパーは全くと言っていいほどなかった。
家にあるぶんが尽きたらどうしよう、と不安になったが、母が自信満々に「大丈夫。物流が止まっている時期に皆が買うからなくなっただけ。家にあるぶんがなくなるころにはまた店に並ぶよ」と言うので、それを信じて自身を落ち着かせた。
店は大変だったけれど。

つきあっていた人は、呑気だった。
名古屋では普通に生活が進んでいるらしく、それはもちろんいいことなのだけど、「今日はおいしいパン屋に行った」「こっちでもミネラルウォーター売り切れちゃうのかな」「おれ停電とか無理だなー」とか無神経なことを言うので、だんだん彼のことが嫌になっていった。
震災がきっかけで結婚した人は多いと聞くけど、別れた人もかなりの数いたんじゃないかと思う。

いざというときに歩みが合わないというのは別れを考えるには十分な理由だし、価値観の違いを気づかせるきっかけにもなってしまったのではないかと思う。
夫婦に限らず、この震災で、これまでに見えてこなかった問題が発生して(原発のことが顕著な例だけど、それまで論じることも避けてきた人はわたし含めたくさんいるはず)関係がうまくいかなくなった、というのは少し悲しいことだなと思う。


さらにわたしたちを疲弊させたのは、計画停電だった。
わたしは停電がいちばん多いブロックに住んでいたこともあり、その中で店を営業するのは大変なことだった。
最初は停電の少し前に閉めていたのだけど、あまりにも停電が多いのでこのままでは大赤字になるところだったし、お客さんから「何も出さなくていいし暗くていいから、このままここにいさせてほしい」という声が多くあったからだ。
※停電のあいだはお客さんも身動きがとれないので

停電中に仕事をするのは大変だった。
計画的に充電して、キャンドルに火をつけて、ガスは使えるから火を使って調理できるものだけ出した。
そして、信号もついていない道を帰るのだ。
何をするにも神経を使ったし、その間にももちろん何度となく余震があった。
そのたびに火を消し、皆で大丈夫ですかと言い合った。

電車もなかなか動かなかった。
駅のシャッター前には、説明のためか駅員さんが二人立っていた。
そこにヒステリックな人がやってきて、駅員さんになにかまくし立てているのも何度か見た。
わけのわからないことを怒鳴り散らし、手をあげようとする人もいた。
彼らもこの地震で神経が昂ぶってしまっているのだろう。薬が取りに行けないのかもしれない。
そう思うと、悪者はいないのに悪いとしか言えないこの状況がとても悲しく思えた。


父の友人であり、昔からうちの店に来てくれているのでわたしも子どものころから知っているおじさんが亡くなった。
持病があったそうで、地震の後、発作を抑える薬が切れて亡くなったのだそうだ。
こうして間接的に震災の影響で亡くなっている人は多いのだろうな、と思った。


わたしもまたナーバスになっていた。
数年前に罹患したパニック障害がようやく良くなってきて通院もやめたところだったのに、また病院に行くことになった。
そういう人は多いよ、と医師は言った。
そりゃそうだよな、と思いながらも、それで安心などできるはずもなく塞いだ気持ちで日々を過ごした。

テレビも見たくなかったし、大好きな音楽も聴く気になれなかった。
だけどニュースを見ないと現実から目を背けているような、東北の人たちに申し訳ないような気がして、それはそれで気が滅入った。
余震があったらと思うと、仕事以外に外に出る気にもなれなかった。
停電のせいで時間が自由に使えなかったこともあり、敷きっぱなしの布団の上でただグズグズしていた。


でもやはり、時間は偉大だ。
1〜2週間経ったあたりで、自分がするべきことは普通に暮らすことなのだと気がついた。
悲しんでいても傷ついていても仕方ない、もっと悲しい人も傷ついた人もいるのだから。
そう思って毎日を過ごしたが、その思いこそが自分を追い詰めたのだと後になって思う。

ひと月ほど過ぎて、悲しんでいいのだ、と思うことにした。
わたしよりつらい思いした人がたくさんいるからといって、わたしはわたしでつらいのだったらそれはそれで認めてあげようと思った。
いつもの自分が0として、津波の被害に遭った人が1000つらいとして、わたしはわたしで100つらいのだから、それを0のように振る舞おうとするのは無理があると気づいたのだ。
100ぶんは、つらいと言っていい。悲しんでいい。
悲しいときに悲しんだり立ち止まったりぐずったりすることこそ、普通に暮らすことなんだ。

そう感じ始めた人は多かったようで、わたしは呑気な恋人よりも同じように悲しみながら暮らしている人のほうが心を開けるようになっていった。


震災の後、すごく助けてもらったと勝手に思っているのがceroで、それは以前の記事にも書いた。
プライベートのぐちゃぐちゃも含めて、勝手にceroに救われ続けている。
ceroも確実にあの震災を意識しながら音楽をつくっていると思う。

そのceroが、5年間で大きくなり、何倍もの観客を集められるようになり、2016年3月7日のSMAP×SMAPに出演したことが、自分のなかでずーんときてしまった。
幼稚な表現で申し訳ないけど、他になんと表現すればいいかわからない。
嬉しいとも違う、感動とも少し違う、なにか。


ceroの記事でも書いた通り、わたしはその後同じような重さを抱えた(と思えた)人を好きになり、その人とつき合うようになり、また別れ、もうわたしはだめだ、運命の人と思った人でもだめだった、なんて思ったのですが、今は結婚して平和に暮らしている。
だれかとつき合い始めると同時に別れの心配をしていたようなわたしが、交際期間がほとんどなかった今の夫と結婚して一度のケンカもせずに暮らしている。
そんな奇跡があるのだから、生きているうちは生きることに尽くさなきゃいけないな、と思うわけです。
なにもできないときはしなくてもいい。
なにかできるかもっていうときに動きさえすれば。

この5年で、動き出したスピードは人それぞれだと思う。
でも、5年前のあの日をなにかの区切りにして動いている人がほとんどなんじゃないのか。
忘れることはないだろうけど、薄れてはいく日々のなかで、一度書きとめておきたかった。


もう5年、まだ5年。
わからないけれど、わたしはわたしのできることをしながら、泣いたり笑ったりしながら生きていこうと思う。

ひとまず、実家に着いたら母に「誕生日おめでとう」と言ってプレゼントを渡そう。